ヒツジミズ
「もう1年早く生まれていたらな」
右斜め上の乾に向かって言うわけでもなく薫はつぶやいた。
そう、もう1年早く生まれていたら乾を先輩と呼ばなくてもよかったし、
この「置いて行かれる」という気持ちだって持たずにすんだに違いない。
夏が終わる。
3年生たちは引退してしまう。
つまり、乾も。それを考えると無性に寂しくなる。
「乾がいなくなる」それだけのことがとても重く圧し掛かる。
乾先輩はオレを置いて引退し、卒業してしまう。その虚無感の大きなことといったら。
それを考えてのつぶやきを薫は零したのだった。
「それってどういうことかな?」
乾がデータにない発言を薫がしたとでも言わんばかりに眼鏡を光らせ聞き返してきた。
しかし元来口下手であんな性格の薫のことだ。
まさか乾先輩がいなくなると寂しい、乾先輩はオレを置いて行っても平気なのか?など言えるわけもなくぶっきらぼうに
「なんでもねえよ」
と言って顔を背けるほかなかった。
ただ、いつもより少し寂しそうな表情をしていただけ、ただそれだけ。
「夏が終わると海堂と離れちゃうな〜。寂しいな〜」
乾が薫の方に微笑みかけながら切り出した。
瞬間、薫は目を見開いて乾の方を向きなおした。
「引退しちゃうとさ、受験だ、なんだで忙しくなっちゃうだろ?
いちおうエスカレーター式とはいえ勉強はしなくちゃならないからな。
だから今みたいに海堂と帰ることも減っちゃうのかな、って思うと寂しいなって」
乾はもう薫ではなく誰もいない空を見ながら話している。
そんな姿が薫には腹立たしかった。
あぁ、コノ人はきっとオレを置き去りにする、と。
口では寂しいと言っていても顔に悲壮感がないのがなによりの証拠だ、と。
そう考えていたら悲しくなって、次に怒りがこみあげてきた。
「でも、アンタはオレを顔色1つ変えずに置いていくんだろう?」
気が付いたら言葉があふれ出してきた。
あふれ出した言葉は加速度を増し、叫びに変わっていく。
「どうせオレだけなんだろ!?アンタはオレがいたっていなくたって同じなんだろ?
寂しいとか女みてえなこと思ってるのはオレだけなんだろ!?
なんだよそのツラ!?嬉しそうに引退した後の話なんてしやがって・・・
オレと離れ離れになるのがそんなに嬉しいか!?」
「海堂・・・?」
「オマエ口では寂しいとかいいながら楽しそうじゃねえかよ!!」
一通り言葉を吐き出して薫は涙目で乾を睨みつけた。
憎しみと愛情が等しく混ざり合った視線で。握り締めた拳を震わせながら。
「海堂・・・」
乾はもう一度眼前にいる愛しい後輩の名前を呼び、そっと抱き寄せた。
「離せ!オマエなんかもう知らねえ!!」
腕の中で薫は暴れて身体を引き離そうとするが、
乾の方が身体も一回り大きいためなかなか離れられない。
乾は自分の両腕の中で暴れる薫をこれほど可愛らしく、愛しいとおもったときはなかった。
自分が薫に好きだと、愛していると言うことはあっても薫から言われたことなど一度もなかった。
自分は愛されていないのだと半ば開き直り、
でももしかしたら、とカマをかけるためにわざと明るい口調で話してみたのだが
予想以上に薫がイイ反応を返してくれた。
そう、俺のことを好いていてくれているのだと感じさせてくれるような。
俺の他人行儀な態度に腹をたてるのは嫉妬の証拠。
俺に置いて行かれて寂しいというのは愛情の証拠。
そこまで思うのは思い上がりかもしれないが・・・。
「海堂・・・」
乾はますます力を込めて薫を抱きしめた。
薫の名前を呼ぶ以上によい言葉が見つからなかった。
自分が抱きしめている体温と、その名前がたまらなく可愛かった。
「知ってるか、海堂。人間は1年早く生まれてくるんだそうだ。
だからな、海堂が1年早く生まれるんじゃなくて俺がもう1年遅く生まれてきていればよかったんだよ」
そう言って乾は微笑んだ。薫はその顔に安堵感を覚えた。
まるで母親の胎内にいるかのような。今は母ではなく、乾の愛に包まれているのだ、と。
羊水の中でゆらりゆらり漂う胎児。
もう1年眠らせて?
愛しいあの人と共に歩むため。
END
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