「僕、もうどうしたらいいのか分からない」
受話器の向こうで小さく、そしてか細く囁く声がした。
それと同時に耳元に流れ込んできたのは堪えきれずに喉から漏れた嗚咽。
その嗚咽が耳へ、脳へ届くとともに湧き上がったのは、
事実をしった驚愕よりも彼を、不二を泣かせた、という事に関する怒り。
「泣くな、オレでさえ不二が泣いたらどうしたらいいか分からなくなる。だから、泣くな。」







10YEARS AGO






「周、おっきくなったらオレと結婚しようね」
どこまでも、どこまでも澄み渡る青空。五月の新緑が眩いばかりの若々しさを放つ。
その眩しく、希望に満ちたような緑が広がる公園の一角、
シロツメクサの花畑が広がるそこに小さな少年が3人。
「うん、いいよ」
虎次郎は周助の返事を目をきらきらと周りの新緑に負けんばかりに輝かせていた。
「やった!!絶対だよ?」
そう言って虎次郎は器用にシロツメクサで編みこんだ指輪を周助の薬指にくぐらせた。
「花嫁さんはね、こうやって指輪するんだって。お母さんが言ってた」
「僕が花嫁さんなの?」
「うん、周が花嫁さん」
「じゃあオレは?」
二人の横で一心不乱にシロツメクサを編みこみ、王冠を作っていた景吾が顔を上げた。
「オレはなんだよ、佐伯」
虎次郎はちょっと困ったように宙を仰ぎ、首を左右に傾げている。
周助もそれの真似をして同じように首を傾げ、顎に指をあてて考えるポーズをとっている。
それを見て、景吾は笑みが溢れてきた。
心のそこから可愛い、と思える映像がそこにあった。
「あ!わかったよ!!」
周助が今にも頭上に豆電球がともらんばかりの微笑みを二人にむけた。
「虎次郎のお婿さんになればいいんだよ、景吾が!!」
周助の画期的とも、無謀ともなんとも言えない提案。
誰もが突っ込みを入れるであろうこの提案。
しかし、所詮この3人。されどこの3人。
誰一人この案に反対するものもなく、それどころか周助を2人で褒め称えていた。
「それならオレと周と景吾3人でずっと暮らせるしね!」
「不二、オマエ以外と頭いいのかもな!」





そう言って笑いあって、みんなで遊んでいたのに。






桜の蕾も膨らみ始め、春の兆しが見えてきたその日。
普段は電話よりも逢う事の方が早いし、顔が見れるからいいという虎次郎からの急の電話。
嫌な予感というよりも怖かった。
何か胸の奥でザワザワと得体の知れない何かが動いているような気がした。




「周、オレ千葉に引っ越す」




そう一言だけ告げられ、切られた電話。
一瞬、いや何時間経っても何を言われたのか理解できなかった。
ただ一方的に突きつけられた事実は
僕の傍から虎次郎がいなくなる、ということだけ。
そう、虎次郎がいなくなる。
その事実が足元からじんわりと全身に染み渡ってくる。

気がつけば僕は虎次郎の家まで全力で走っていた。
さっきの電話は嘘だと、
3人で何時までも一緒にいるんじゃないのかと。


息を切らして辿り着いた「佐伯」の表札の掛かっているべき家には
すでに家人の気配すらなく、もうここ何年も空き家になっているかのような
寂れた廃墟感が漂っていた。





「嘘でしょう?」




その後はどうやって自宅に帰ったのか覚えていない。
ただ、寂しくて、辛くて。
「僕は置いていかれたんだ」という気持ちが小さな身体を駆け巡る感覚しか感じられなかった。
止まらない涙が頬を伝う感覚すらも麻痺してきていた。




トゥルルルルル




リビングへ繋がる廊下の電話が勢いよく鳴り出す。
「周助〜景吾くんから電話よ〜?」
景吾、という言葉が耳に入り、ピクリ、と身体が揺れる。
景吾なら何か知っているかもしれない。でも景吾だけ知っているのも嫌だ。
ゆっくりと、そして足取りも覚束ないまま受話器を受け取る。
「はい?」
先刻まで泣いていた、というのが明らかな擦れた、鼻にかかった声。
『何したんだ?不二。風邪でもひいたのか?』
「そんなことないけど・・・」
『ならいいけどよ。なぁ佐伯の家に電話かけても通じねえんだよ、留守とかそんなのじゃなくてよ
なんか不二知らないか?』
景吾が何も知らないことを知り、驚愕すると同時に絶望も感じた。
虎次郎は僕らを置いて行ってしまったんだ。
僕らのことなど、もうどうでもよくなってしまったのだ。
「僕、もうどうしたらいいのか分からない」
零れ落ちた言葉と涙。
受話器の向こうでは相変わらず偉そうにしつつも、狼狽している景吾の様子が
手に取るように伺えた。
『どうした?不二。佐伯に何かあったのか?』
「虎次郎は、僕らを  置いて 、僕らに  なにも  言わずに 
千葉に  引っ越した  んだ。」
嗚咽が込み上げてきて途切れ途切れにしか言葉に出来ない自分が情けなかった。
何より虎次郎に別れの挨拶も言ってもらえない自分が情けなかった。
『はあ?なんだよソレ。オレ何もしらねえヨ。』
景吾の口調からは明らかに怒りが読み取れた。
隠し事はしてもされるのは嫌な性質だ。
余程自分が信用されていないのかと思い腹が立ってきたのだろう。
追い討ちをかけるように耳元で泣きじゃくる不二の声。
腹の中で何かが渦巻いているような感じがした。もやもやと、そして気持ちが悪いものが。
『泣くな、オレでさえ不二が泣いたらどうしたらいいか分からなくなる。だから、泣くな』
「うん・・・」
『じゃあな』














新緑がまた、生い茂る季節になってきた。
木の葉の間から差し込む白い日差しに眉をしかめながら空を仰ぐ。
そういえばみんなでずっと一緒に居ようね、そう約束したのはもう10年も昔になる。
突然の両親の離婚。それに気づかなかったわけじゃない。
そして周に最後まで真実を言えなかったという罪悪感、後悔。
景吾に蔑まれているのではないかという猜疑心。
それらを抱え込んだまま音信不通で10年の歳月が過ぎた。
「あっついな・・・」
氷帝学園との練習試合。
六角中のタンクトップのポロではまだ肌寒く、しかしジャージを着ているには暑い、
5月のくせに、と零したくなるような暑さ。
見上げていた空から視線を逸らし、ふと、視線を泳がせる。
そこにいたのは跡部。
子どものときから何1つ変わっていないやたらと偉そうな立ち居振る舞い、その表情。
すべてが10年前の跡部景吾そのままだった。
ただ、違っていたのはあの頃の景吾からは想像できないくらいに
感情をむき出しにした表情をして此方を凝視していたこと。
怒り、驚き、喜び、いろいろな感情が織り込まれた表情で跡部景吾は佐伯虎次郎を見つめていた。








「景吾・・・?」






「15歳にもなって景吾じゃねえよ、このクソバカヤロウ」
「ごめん・・・」
口を開いたなりイキナリ飛んできた鉄拳は流石に動体視力のいいオレでも見極めることは出来ず、
クリーンヒットし、赤く多少腫れた頬を摩りながら跡部の隣に腰掛ける。
「ここで逢ったが百年目だ、10年前の落とし前つけてもらうぞ、佐伯」
「え・・・?」
「テメエのせいであの不二が、オレの大事な不二が・・・」
思い出したくもない記憶なのか跡部はそれから先を続けようとせず、
じっと組まれた掌を眺めていた。
実際、思い出したくもなかった。
佐伯がいなくなってからの不二は廃人のようだった。
たかが5歳の子どもが、と周囲も心配を通り越して驚愕するばかりだった。
跡部とすら話そうとせず、日中は泣いて、泣いて、泣いて疲れて眠り、
夜になるとぼんやりと家の中を歩き回り、
時折誰もいない佐伯家の玄関前で夜中に眠りこけていたこともあった。
跡部は自分の、不二の中における自分の存在価値の小ささに絶望し、
そして大事な不二をここまで追い詰めた佐伯を憎らしくも思った。
「何で、あのときオレや不二に何も言わずに言ったんだよ」
「え?」
唐突に、しかし予想通りに聞かれ、佐伯は多少狼狽する。
本音を言ってしまったらただの子どものエゴである。
しかし本音を言わない限り跡部が納得しないのも承知である。
「目の前で周・・・不二に泣いてほしくなかったんだよ。
オレはいなくなった後、不二がどうなるかなんて考えてもなかった。
不二の中でそんなにオレの占める部分が多いなんて思いも寄らなかったし。
だって、け・・・跡部もいたしね。
それにオレ自身、不二に逢えば泣いて”引越しなんてしたくない”って
泣き喚くの目に見えてたし。
そんなかっこ悪いところ見せたくなかったんだよ、好きなコの前じゃ」
「ガキ、だな」
「ガキだよ」
そう言って目を合わせて、自嘲気味に佐伯は微笑む。
「それでもオマエがオレの大事な不二を泣かせた罪は重いからな」
跡部は佐伯に意味深なそして心底性悪な笑みを浮かべる。
「あの約束、守ってもらうぞ、もちろんオレ含め、でな」
そう言って跡部は立ち去った。









サワサワ・・・
と木々が擦れる心地よい音がする。
『周がオレのお嫁さん、景吾がオレのお婿さん』
そんな10年前の子ども同士の口約束など、跡部はとっくに忘れたものだと思っていた。
「何だかんだ言って跡部も律儀だな・・・」
腹の底から笑いが込み上げてきた。
「周は覚えてるのかな・・・?」
そう言って再度見上げた空はあのとき3人で見た青空のように雲ひとつない空だった。





END





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